仕事・キャリアの悩み

「おー、今日は頑張ってるじゃないか」と言われて感じた違和感

毎朝、すし詰めの満員電車に揺られながら、片道1.5時間をかけて会社へ向かう。車窓から流れる景色を見ながら「この生活が定年まで続くのだろうか」と絶望する。数年前の私は、まさにそんなギリギリの精神状態で働いていました。

会社や上司への不満はあるのに、辞める勇気もスキルもなく、ただ現状維持を選ぶしかなかったんです。

そんな私が、ふと自分の働き方、ひいては会社の「評価軸」に強烈な疑問を抱いた日のことがあります。たまたま遅くまで残業していた私に、先輩がかけた何気ない一言。

「おー、今日は頑張ってるじゃないか」

悪気はないと分かっていても、心の中にはドロドロとした違和感が残りました。本稿では、当時の私が感じた「長時間労働=偉い」という会社の空気へのモヤモヤと、そこから見えてきた「会社に依存せずに生き残るための考え方」について、綺麗事抜きでお話ししたいと思います。

目次

「おー、今日は頑張ってるじゃないか」と言われた日

あの日のことは、今でもはっきりと覚えています。いつもならとっくに電車に乗って、スマホで副業のリサーチをしている時間帯でした。

いつもは定時で帰る私

私は基本的に、自分のタスクが終わればサクッと定時で帰るタイプです。往復3時間という過酷な通勤があるため、少しでも早く帰宅して自分の時間を確保したかったからです。「仕事は終わっているのに、周りが残っているから帰りづらい」という空気は確かにありましたが、無駄に会社に滞在しても給料が爆上がりするわけではありません。だからこそ、日中は無駄口を叩かず、いかに効率よく終わらせるかだけを考えていました。

たまたま遅くまで残っていた

しかし、その日はイレギュラーなトラブルが重なり、どうしてもその日のうちに終わらせなければならない業務が発生してしまいました。誰も助けてくれない状況で、黙々とキーボードを叩き続け、気づけば夜の21時を回っていました。オフィスはすっかり人も減り、妙な静けさが漂っていました。「早く帰って、寝たい……」。ただそれだけを考えていた時です。

悪気のない一言だったと思う

ふと後ろから声がしました。残業が常態化している、いわゆる「会社大好きおじさん」の先輩でした。

「おー、今日は頑張ってるじゃないか。頑張ってるじゃん」

笑顔で、肩をポンと叩きながら去っていきました。彼からすれば、後輩の労をねぎらう、ちょっとしたコミュニケーションのつもりだったのでしょう。決して嫌味ではなく、純粋に「遅くまで頑張っている私」を褒めてくれたのだと思います。

でも私はなぜ違和感を覚えたのか

「ありがとうございます」と愛想笑いで返したものの、先輩が去った後、私の胸の中には鉛を飲んだような重たい違和感が広がっていました。褒められたはずなのに、全く嬉しくない。むしろ、少しイラッとしてしまったのです。

長く働くことが評価されているように感じた

違和感の正体はすぐにわかりました。先輩の言葉は、「成果」ではなく「遅くまで会社にいること」そのものを評価していたからです。「こんな時間まで働けるようになった」という言葉の裏には、「遅くまで会社にいる=えらい、一人前」という価値観が透けて見えました。私がその日、どれだけのトラブルを迅速に処理したか、どんな価値を生み出したかには、おそらく一切興味がなかったはずです。

成果より滞在時間が評価されている感覚

いつも定時で帰りながらも、目標の数字はきっちり達成している時の私は、一度もあんな風に褒められたことはありませんでした。むしろ「あいつは付き合いが悪い」「やる気がない」といった目で見られることすらありました。

なのに、ただトラブル処理で遅くまで「滞在」しただけで、「頑張っている」と認められる。この会社では、何を生み出したかではなく、どれだけ会社という箱の中に身を置いたかが評価基準になっているのだと、まざまざと見せつけられた瞬間でした。

妙な厨二病感を覚えた理由

同時に、その空気に染まっている先輩の姿に、どこか「妙な厨二病感」を覚えてしまったのも事実です。「俺、今日も終電だよ〜」と自虐風に自慢するあの独特のノリです。会社に人生の時間を捧げることが美徳とされ、それに酔いしれている。

片道1.5時間の通勤で毎日HPを削られ、なんとか自分の人生を取り戻そうと必死にもがいていた私にとって、その価値観は到底受け入れられるものではありませんでした。「私は、この人たちと同じ価値観で定年まで生きることはできない」。そう確信した出来事でした。

「俺、寝てないから偉い」と似ている気がした

学生時代にもいた武勇伝文化

中学生や高校生の頃、テスト期間になると必ず現れる「昨日1時間しか寝てないわー」と謎のアピールをしてくる同級生がいませんでしたか? あの「寝てない=頑張ってる=偉い」という方程式です。当時の私は「寝てないなら早く寝ればいいのに、なんで自慢げなんだろう」と冷めた目で見ていたのですが、ふと気づいたんです。残業を褒めてきた先輩が纏っていた空気感は、あの時の同級生のドヤ顔と全く同じだということに。

社会人になっても残る長時間労働信仰

大人になり、立派なスーツを着ていても、価値観がアップデートされていない人は驚くほどたくさんいます。とくに日本の伝統的な体質の会社では、かつての猛烈社員的な「長時間労働信仰」が根強く残っていますよね。私自身、別部署の飲み会に顔を出した際、「今月は残業80時間超えちゃってさ〜」と、まるで歴戦の勇者のように語る中堅社員の姿を何度も見てきました。心の中では「それ、業務の割り振りがおかしいか、効率が悪いだけでは……?」と突っ込みつつも、波風を立てないようひたすらビールを注いでいました。

苦労の量で競う価値観

この違和感の根底にあるのは、「成果の質」ではなく「苦労の量」で競い合おうとする文化です。どれだけスマートに問題を解決したかではなく、どれだけ汗をかき、泥にまみれ、自分のプライベートを犠牲にして会社に尽くしたか。それが「忠誠心」であり「頑張り」として評価される。

でも、片道1.5時間もかけて通勤し、すでに毎日3時間という人生の自由を奪われている私からすれば、これ以上の時間と体力を会社に捧げるなんて、物理的にも精神的にも不可能です。この「苦労の量で勝負する土俵」に乗ってしまったら、私は確実に心身を壊してしまうと、強い危機感を抱きました。

仕事量と仕事時間は比例しないと思う理由

時間があると集中力は薄まる

「遅くまで残業すれば、それだけたくさんの仕事が終わる」というのは、実は大きな幻想です。これは私が過去に何度も陥った罠でもあるのですが、「今日は残業してでも終わらせよう」と決めた日ほど、不思議と日中の集中力がプツンと切れてしまうんです。「どうせ夜までいるし、後でやればいいや」という悪魔の囁きが生まれ、ネットニュースを見たり、急ぎでないメールの文面を無駄に推敲したりと、見事にダラダラしてしまいます。

締切があるから工夫が生まれる

逆に、私が毎日「絶対に定時で帰って副業の時間を確保するぞ」と血走った目で決意していた日は、驚くほど仕事が進みました。終業時刻という絶対的なデッドライン(締切)があるからこそ、「この打ち合わせは15分で終わらせよう」「この資料は完璧を求めず、まずは60点の出来で上司に投げて反応を見よう」といった工夫が自然と生まれます。人間は、強烈な制約がないとどこまでも怠けてしまう生き物なのだと、自分自身の情けない経験から痛感しました。

効率化は制約から生まれる

世の中の優れたツールや業務改善のアイデアも、多くは「時間がない」「面倒くさい」という制約や不満から生まれています。私がAIの活用法やマーケティング思考を必死に学んだのも、決して意識が高かったわけではありません。「いかに会社での無駄な作業を減らして、自分の人生を取り戻すか」という、ある意味で不純だけど切実な動機があったからです。無限に時間がある(残業が許容される)環境では、新しいやり方を模索しようというハングリー精神は育ちません。

残業できるから終わらない仕事もある

当時の職場の様子を客観的に見渡して気づいた、残酷な事実があります。それは「残業が常態化している部署ほど、実は不要な仕事を作り出している」ということです。過剰なアニメーションがついた社内プレゼン資料、誰も読んでいない長文の日報、何かが決まるわけでもないのに全員参加の定例会議。「残業できる余白」があるからこそ、その余白を埋めるためだけの「仕事のための仕事」が無限に増殖していくのです。本当に必要な仕事だけなら、とっくに終わっているはずなのに。

仕事は暇すぎても効率が落ちる

「時間はあればあるだけ良い」「たくさん時間を使えば、それだけ良い仕事ができる」。かつての私もそう信じていました。しかし、これはとんでもない幻想です。

時間が余ると人は仕事を増やし始める

イギリスの歴史学者パーキンソンが提唱した「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」という有名な法則があります。難しい言葉を使わず、私自身の生々しい実体験で言うと、「定時まであと3時間もあるから、とりあえず過去の会議の議事録をエクセルで綺麗にまとめ直しておこう」みたいな、頼まれてもいない謎の作業を始めてしまうアレです。

やることがない不安が仕事を生む

私がまだ定時退社を徹底しきれていなかった頃、自分のタスクが早く終わってしまった時、周りが忙しそうにしていると「自分だけ暇で申し訳ない」という謎の罪悪感に駆られていました。そして「念のため」と過剰な装飾を施した資料を作り込んだり、どうでもいいメールの文面を無駄に推敲したりして、必死に"やっている感"を演出していました。やることがない不安や手持ち無沙汰を紛らわすために、自ら「無駄な仕事」を創り出していたのです。

残業できる環境は効率化の敵になる

「残業が前提」の職場環境は、まさにこの「無駄な仕事づくり」の温床です。「どうせ夜までいるんだから、これもやっておこう」と、本来なら優先順位の低いどうでもいい業務にまで手を出してしまう。結果として、本当に重要な「成果に直結する仕事」に割くべきエネルギーが分散され、ただただ疲労だけが蓄積していくのです。「残業できる」という安心感が、効率化の最大の敵になっていました。

私自身も暇になると余計なことを始める

これは会社員としての業務だけでなく、自分でビジネスを立ち上げようと試行錯誤していた時期にも陥った罠でした。休日に「今日は丸一日時間があるから、一気にサイトのコンテンツを作るぞ!」と意気込んだ日に限って、サイトのデザインをいじり始めたり、細かい設定に何時間も溶かしたりして、肝心の記事作成を一切進めずに夕方を迎える。時間がたっぷりあると、人間は本当に「やらなくてもいいこと(でもやってる感が出る作業)」に全力で逃げてしまう生き物なのだと、自分自身の愚かさから学びました。

時間の制約は生産性を高める装置でもある

だからこそ、私は今「時間の制約」は敵ではなく、自分の生産性を極限まで高めてくれる「最強の装置」だと考えています。片道1.5時間の通勤電車の中や、妻や2人の子どもが起きる前の早朝1時間。この「限られた時間しかない」という強烈な制約があるからこそ、「今、最も価値を生む行動は何か?」を血眼になって探し、無駄な作業を容赦なく削ぎ落とすことができるのです。

本来評価されるべきなのは成果ではないのか

こうして自分自身の時間の使い方をシビアに見つめ直すと、会社が「遅くまで会社にいること」を美徳とし、評価する文化がいかに不健全かがわかってきます。

会社にいた時間

会社にいた時間は、経営視点で見ればただの「コスト(人件費と光熱費)」です。長くいたからといって、会社の利益が自動的に1円でも増えるわけではありません。むしろ、ダラダラと残業代を貪ることは、会社にとってマイナスでしかないはずです。それなのに、コストをかけている人間が「頑張っている」と評価される。冷静に考えれば、これほどおかしな話はありません。

処理した仕事量

では「とにかく手を動かして、たくさんの仕事を処理した」なら偉いのでしょうか? これも少し違います。例えば、100件の無駄な社内メールをさばいた人と、たった1本の電話で大型案件のトラブルを未然に防いだ人。処理した「量」は前者が圧倒的ですが、会社に貢献しているのは間違いなく後者です。「忙しく動き回っていること」と「価値を生み出していること」は、全く別物なのです。

生み出した成果

本当に評価されるべきなのは、どれだけの「価値(成果)」を生み出したか。これに尽きるのではないでしょうか。極端な話、1日3時間しか働いていなくても、会社に莫大な利益をもたらしたり、業務を劇的に改善する仕組みを作ったりしたなら、その人は最高評価を受けるべきです。逆に、毎日終電まで15時間働いていても、何も新しい価値を生み出していないなら、それはただの「自己満足の耐久レース」でしかありません。

どれが本当に価値を生むのか

「何時間働いたか」を誇るのではなく、「どんな価値を生み出したか」にこだわる。この視点を持つことは、会社という理不尽な組織の中でモヤモヤせずに生き抜くためだけでなく、これから先の時代を個人として生き残るために絶対に欠かせない思考法です。なぜなら、会社から一歩外に出た瞬間に待っているのは、この残酷なまでの「成果主義」の世界だからです。

副業を始めてさらに感じるようになったこと

会社という箱の中の「異常な評価軸」に気づき始めた頃、私は満員電車の中でスマホをポチポチと叩きながら、ひそかに副業の準備を始めていました。そして、実際に自分の力で1円を稼ぐという経験をした時、会社との価値観の違いに愕然とすることになります。

結果でしか評価されない世界

副業(私の場合はブログやアフィリエイト、Webマーケティングなど)の世界は、残酷なまでに「成果主義」です。誰も私の「頑張り」なんて見ていません。

初心者の頃、私は睡眠時間を削り、レッドブルをがぶ飲みしながら、1記事に30時間以上かけて渾身のコンテンツを書いたことがありました。「これだけ苦労したんだから、絶対に読まれるはずだ」と期待して公開ボタンを押したものの、結果はアクセス数ゼロ、収益ゼロ。市場(読者)は、私が何時間パソコンの前に座っていたかになんて、1ミリも興味がなかったのです。価値を提供できなければ、どれだけ残業(徹夜)しようが無給。これが現実でした。

10時間で100円と1時間で1000円

さらに痛感した出来事があります。副業初期に「とにかく手を動かせば稼げるだろう」と、単価の安いアンケートモニターや文字起こしの内職に手を出した時のことです。土日を丸一日潰して10時間も作業したのに、手元に残ったのはたったの100円ちょっとでした。

一方で、読者の悩みを徹底的にリサーチし、「どうすれば解決できるか」という価値提供に絞って1時間でサクッと書いた記事から、ある日突然1,000円の報酬が発生したのです。「時間をかければ稼げるわけではない」「工夫して価値を生み出せば、短い時間でも評価される」。この強烈な原体験は、私の「労働時間=正義」という固定観念を木端微塵に打ち砕きました。

会社との価値観の違い

この「結果でしか評価されない世界」を知ってから翌朝会社に出社すると、あまりのギャップに頭がクラクラしました。

副業の世界では、10時間かけて価値ゼロなら「大失敗」です。早急にやり方を改善しなければ生き残れません。しかし会社では、10時間ダラダラと無価値な会議や資料作りに時間を溶かしても「遅くまで頑張ってるな」と評価され、ご丁寧に残業代まで振り込まれるのです。

「このぬるま湯の価値観に浸かりきってしまったら、いざ会社が傾いた時に、自分は外の世界で1円も稼げない無能なおじさんになってしまう」。先輩からの「おー、こんな時間まで……」という言葉に私が感じた違和感の奥底には、実はそんな「強烈な生存的危機感」が隠れていたのだと、後になって気づきました。

長時間労働を否定したいわけではない

ここまで、長時間労働を評価する風潮を徹底的に批判してきましたが、誤解してほしくないことがあります。私は決して「残業はすべて悪だ!」「どんな状況でも定時で帰る権利がある!」と声高に叫ぶ、意識高い系の権利主張おじさんになりたいわけではありません。

本当に忙しい時期はある

ビジネスである以上、どう考えても定時で終わらないイレギュラーは発生します。大規模なシステムトラブル、絶対に外せない大型コンペの前日、あるいは繁忙期の尋常じゃない業務量。そうした「ここぞという踏ん張り時」に、「定時なんで帰ります」とチームを放り出すのが正義だとは、私も思いません。

実際、私自身も本当に必要な時には、終電まで残って泥臭くトラブル対応をすることもあります。仕事の責任を果たすために時間を投資することは、プロとして当然の行動だからです。

残業そのものが悪ではない

それに、「長時間働くこと」自体が不幸だとも思いません。例えば、私が副業のサイト設計に没頭している時、気づけば深夜3時になっていることがよくあります。でも、それは強制されたものではなく、「楽しくて、夢中になって、自分の価値を高めるために」自ら選んだ時間です。

会社員であっても、新しいスキルを身につけるためや、純粋に仕事が面白くて没頭している結果としての長時間労働であれば、それは決して悪いことではないはずです。

問題は評価軸だと思う

では何が問題なのか。それはやはり「評価軸」のズレなのです。

「トラブルを迅速に解決するために残業したこと(=生み出した成果や責任感)」を評価するのと、「遅くまで会社に残っていたこと(=滞在時間)」そのものを評価するのは、似ているようで全く違います。

後者の評価軸が蔓延している職場では、「早く終わらせて定時で帰る有能な人」が肩身の狭い思いをし、「ダラダラと時間をかけて残業代を稼ぐ人」が得をするという地獄のような構図が完成してしまいます。私たちが本当に違和感を覚え、戦うべき相手は、「残業」そのものではなく、この狂った「評価の基準」なのです。

時間内で終わらせることにも価値がある

仕事の質を高め、結果を出すことだけが定時退社の目的ではありません。私たちが本当に守るべきものは、会社を一歩出たあとに広がる「自分の人生」そのものだからです。

家族との時間

私には妻と2人の子どもがいますが、かつてダラダラと残業を重ねていた頃は、帰宅するといつも家族は寝静まっていました。暗いリビングで冷めた夕飯を食べながら、「俺は一体何のために働いているんだろう」と虚無感に襲われた夜は数え切れません。

でも、時間の制約を味方につけ、いかに早く仕事を終わらせるかに全振りするようになってからは、家族と一緒に夕飯を食べ、その日の出来事を笑い合いながら話す時間が持てるようになりました。「遅くまで会社に残って得られる数千円の残業代」と、「子どもと過ごすかけがえのない時間」。どちらが自分の人生にとって価値があるかは、火を見るより明らかでした。

健康

往復3時間という通勤だけでも、私たちのHPは毎日ゴリゴリと削られています。そこに無駄な長時間労働が加われば、確実に心身は悲鳴を上げます。過去の私は、睡眠不足とストレスで常に胃腸の調子が悪く、休日は泥のように眠るだけでした。

「寝てない自慢」をする同僚を横目に、私は毎日きっちり睡眠をとり、ベストなコンディションで翌日の仕事(と副業)に臨む道を選びました。身体と心を壊してまで会社に尽くしても、会社は一生面倒を見てくれるわけではありません。健康でいること自体が、会社員としての最強の防衛策なのです。

学習や副業

定時退社で生み出した「余白の時間」は、消費するのではなく「未来への投資」に回すことができます。私自身、会社から早く帰って確保した時間を、ブログの執筆やマーケティング思考の学習、AIの活用研究に全振りしてきました。

最初は「時給0円」の泥臭い作業でしたが、その積み重ねが結果的に「会社に依存しなくても生きていける」という強烈な自信と、副収入という実利をもたらしてくれました。残業代で目先の小銭を稼ぐより、自分自身のスキルという「資産」に時間を投資した方が、長期的なリターンは圧倒的に大きくなります。

人生全体で見た生産性

会社のデスクに座っている時間だけが、私たちの人生ではありません。会社での評価を気にして滞在時間を延ばすことは、人生という大きな枠組みで見れば「極めて生産性の低い行為」です。

仕事でしっかりと価値を生み出し、サクッと帰る。そして空いた時間で家族を大切にし、健康を保ち、自分のビジネスや学習に没頭する。これこそが、会社に搾取されずに自分の人生をコントロールするための、本当の意味での「生産性の高い生き方」だと私は確信しています。

まとめ

今回、私が実体験を通じてお伝えしたかったことを整理します。

  • 違和感の正体は「成果」より「滞คาเด在時間」を評価する文化だった
  • 長く働くこと自体に価値はなく、「苦労の量」で競うのは危険
  • 暇すぎる環境や「残業できる前提」は、余計な仕事を生み出す
  • 「時間の制約」は、工夫と集中力を生む最強の味方である
  • 評価されるべきなのは労働時間ではなく、生み出した「成果」
  • これからも私は「長く働く人」ではなく「価値を生み出す人」を目指したい

「おー、今日は頑張ってるじゃないか」

あの時の先輩の言葉に心がザワつき、モヤモヤしたあなたは、決して間違っていません。その違和感は、あなたが会社の古い価値観に染まらず、自分の人生を取り戻そうとしている「正常なシグナル」です。

「残業している人が偉い」という謎の同調圧力に屈する必要はありません。私たちはもう、長時間労働という耐久レースから降りていいんです。会社に捧げる時間を最小限に抑え、生み出す価値を最大化する。そして、空いた時間で自分自身の人生を豊かにするための種を蒔いていきましょう。

-仕事・キャリアの悩み